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医療制度改革と消費税 [世の中もうちょっとなんとかなんない?]

先週のEconomistにこんな記事が載っていました。

アメリカでは、中間選挙を控えて民主党が苦戦している。オバマ大統領の肝いりで法案の通った医療保険改革も大変不人気で、共和党にとっては追い風である。確かに当の新法案は不人気だ。しかし、世論は医療保険改革に反対かというと、そういうわけではないのだ。世論調査によれば、今回の法案は行き過ぎだ、という人よりも、これじゃ全然足りない、という人の方が倍も多い。どちらかというと法案に賛成、という人が反対、という人より多いという調査もある。世の怒りは、医療保険改革がどうのという次元の話ではなく、要するに、二十一世紀における政府の役割と政治の目指すところは何か、という問題なのである。

かいつまんでいうと、こんな感じです。
読んでいて、この前の参議院選挙を思い出しました。菅首相が言いだした消費税引き上げの議論が反発を呼び、選挙が民主党の惨敗に終わった、という話。もちろんアメリカの選挙結果が出るのはこれからで、どうなるかは分かりません。ただ、惨敗(または支持率の低下)の原因とされながら、世論は決して反対ではない、という点で、日本の消費税とオバマ大統領の医療保険改革とは、何だか似ています。日本人の怒りもまさに、政治の目指すところは何なのか、という問題なのです。

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共通テーマ:日記・雑感

ここまで嫌われちゃったのか [世の中もうちょっとなんとかなんない?]

「日本改造計画」を著した頃の小沢一郎さんは、海外メディアにたいへん好かれていました。少なくとも、私のいた金融業界ではそうでした。私の記憶が正しければ、小さな政府志向で、規制緩和などを主とした改革論者で、しがらみのない合理的な目で見れば、きわめてまっとうな議論をする政治家でした。私もかの著書を読み、人物的に好きにはなれないものの、彼の考えには共鳴するものを感じました。

当時一緒に働いていたオーストラリア人やイギリス人の同僚が言うには、彼のように人の目を見て話すタイプの人は信用できる感じがする。対して、その頃人気のあった武村正義氏などは、目線の定まらない話し方をするので、何か隠してるんじゃないかと疑わしく見える、というわけで、国内ではともかく、外人には信頼されていたのです。

あれから月日は流れ、とうとう小沢氏は、首相の椅子を争うことになりました。今の小沢氏を見る海外メディアの目は、かつてのように好意的ではないことは分かっていましたが、先週届いたThe Economist誌にのった論評を見て、好意的ではないどころかあまりの厳しさに驚きました。「日本の民主主義とその将来のために、民主党は、must reject Mr. Ozawa」とまで書かれているんです。彼はここまで嫌われてしまったんですね。

「日本改造計画」の頃とは違って、今や彼の理念も政策も、もはや海外メディアの目を惹きつけません。彼の政治スタイルが大きく変わったわけでもないのに、民主主義の敵、という扱いを受けるまでになってしまったのは、小沢氏の政策論がそこまで劣化してしまったということにほかならないと思います。十分に合理的な議論をしていれば、彼の政治手法が非民主的だという見方に、記者がここまで賛同することはないと思うからです。よくテレビで田原総一郎さんが小沢氏を評して、彼は政局には熱心だが政策には全く興味が無い、と言っていました。それは極端にしてもかなり当たっていると思わざるを得ないほど、小沢氏の政策論は説得力を失ってしまったのです。

私は今回の党首選については、世のマジョリティーの一人ということになるでしょうね。どちらが党首になってもあまり良くなるとは思えない、であれば、ころころ首相を変えるようなことをして、世界中の笑い物になるようなことはやめてほしい、という気持ちです。

善人は周りを不幸にする [世の中もうちょっとなんとかなんない?]

曽野綾子さんの著書で、書名に惹かれて手に取ったものの、始めの一章ほどを読んでそのままになっていた本がある。近頃テレビを見ていて、急にまた続きを読みたくなった。
その書名は「善人は、なぜ周りの人を不幸にするのか」。鳩山政権の成り行きや鳩山首相の言動を見ていて、ふと思い出したのだ。

読み進めてみると思ったとおりで、書かれていることが、まるでそのまま鳩山首相のありようを批判しているかのようだ。鳩山首相へのメッセージそのもの。今すぐリボンをかけて首相に贈りたい、と思うような文章が随所に現れる。(奇しくも出版されたのは昨年九月、民主党が選挙に勝った直後だ。)外交について語られた部分もある。気に入ったところを引用してみると…。

「どこの国でも、近隣の国は利害が一致せず、肩肘張っていないとこちらがやられてしまうものだ、と教える。しかしそれだけではない。そういう相手に対しても、隣人であるが故に、いかなる感情も超えて助けなければならない場合があるのだ、とも教える。その対立する二つの現実に賢く耐えるのが大人なのだ、と教える。」

「一方、幼児性は、社会と人間に対して不信を持つ勇気がない。不信という一種の不安定でおぞましい、しかし極めて人間的な防御本能を駆使することによって、初めて私たちは一つの信頼に到達することができる。」

「平和は善人の間には生まれない、とあるカトリックの司祭が説教の時に語った。しかし悪人の間には平和が可能だという。それは人間が自分の中に十分に悪の部分を認識した時だけ、謙虚にもなり、相手の心を読め、用心をし、簡単には怒らずとがめず、結果として辛うじて平和が保たれる、という図式になるからだろう。つまり、そのような不純さの中で、初めて人間は幼児ではなく、真の大人になるのだが、日本はそういう教育を全く行ってこなかったのである。」

鳩山首相は正真正銘の善人であるに違いない。善人が首相をやっているから、国民が皆不幸になっているのだ。民主党を与党に選んだのは民意かもしれないが、党首を選んだ民主党の方々は、幼児性たっぷりの善人を選んでしまったことを、真面目に反省してほしいと思う。

夫婦別姓だというならば… [世の中もうちょっとなんとかなんない?]

2週間ほど前でしょうか、新聞に夫婦別姓法案についての記事が載りました。私としては、別姓を名乗りたいのに同姓を強要するというのも強引かなあ、とは思いますが、新聞に載ったような法案であれば、別姓に反対ですね。どこが良くないかと言いますと、「一度別姓を選んだら、後で変更できない」ということです。選択の自由を標榜するならば、後々同姓に変更する自由を残すことは必須と考えます。それができないような硬直的な運用なら、同姓を強要する方がマシ。よくあるように、家族の崩壊云々を理由に反対、という議論ではありません。ここでは自分の経験をもとに、「女性の気持ち」という観点から、同姓の方がマシ、という話をしましょう。

私は結婚時にはいわゆるキャリア・ウーマンで、DINKSの間はかなりの期間、夫以上の稼ぎがありました。そういう状況ですから、結婚したからといってこれまでの姓を捨てることには大きな抵抗を感じるわけです。同姓にしたいような、したくないような、簡単には気持ちの整理のつかない問題です。全く自由に選べたら、多分とりあえず別姓のまま結婚生活を始めただろうと思います。私は自分の名刺に、括弧つきで旧姓を併記していました。アメリカなんかじゃ、ミドルネームで旧姓を表記する人がいますからね、その真似です。

しかし、子育てをするようになると状況が変わってきます。夫婦二人の間は一人と一人だったのが、子どもがいると自分だけ仲間外れになってしまうのです。それまでは年賀状も括弧つき併記でやっていたのですが、子どもの名前が入るようになってからはやめました。もし別姓で結婚生活を始めていたら、この時点で同姓に変えようと思うに違いありません。子どもが育っていく過程でお母さんだけ違う名前だ、と言われたくありませんし、子どもを母親姓にすれば済むものでもありません。お父さんだけ違う名前だ、というのも同じように良くないと思うわけです。

色々な感覚の人がいるでしょうから、同姓を強要することはないにしても、「一度別姓にしたらずっと別姓を強要される」のであれば、全ての人に同姓を強要する方がまだマシです。姓を変えるにしても、同姓しか選べないから諦めもつくというもんです。何でも自由ならいいってわけでもない。特に中途半端な自由は始末が悪いと考えます。

儲からない国 [世の中もうちょっとなんとかなんない?]

昨日の新聞には、日本が投資先としての魅力度ランキングで圏外に消えた、という話が出ていた。また、リバティが日本のCATV事業から手を引いたという記事もあった。今日の朝刊は、またウィルコムだ。

何を隠そう私はウィルコムのユーザーなのだ。カーライルがウィルコムを買った時、PHS事業についての本を一冊読んだことを思い出した。その時カーライルと言えば、色々な事業で成功を収めていて今をときめく存在だったはず。カーライルがやるんだからウィルコムだってきっとうまくいくに違いない、というノリだったように思う。そんな会社がやっても儲からないんだから、日本というのはよっぽど儲からないところなんだねえ。こんな日本でいいんでしょうか。

車椅子の予算 [世の中もうちょっとなんとかなんない?]

ある講演会でのこと。
聴衆の中に元養護学校の先生という方がいらして、その方が言うには、子どもの車椅子というのは体の大きさに合わせて乗り替えていくわけですが、すべて個人所有なのだそうです。補助金が出るので個人の負担というわけではないようですが、それで何が起こるかというと、多数の車椅子が子どもの成長とともに廃棄されるというわけです。養護学校では、卒業時に各自が車椅子を置き去りにしないでちゃんと持って帰るように徹底するのが重要な仕事なのだそうです。

その講演のテーマは、恵まれない国へ中古の車椅子を贈る、という話だったので、その場は、そんなに車椅子が余っているならどんどん贈りましょう、良かった良かった、という雰囲気で終わりましたが、私としては本題よりも、その福祉予算の使い方が気になってしまって…。

以前、教育費について というタイトルで、書道セットにせよ鍵盤ハーモニカにせよ、個人に買わせずに学校に配備すべきだ、と書きましたが、お金の使い方という意味で、この福祉の領域にも同じ種類の問題があるような気がします。補助金ということなので個人負担の問題ではありませんが、福祉予算の使い方としては、資源の無駄遣いになってはいませんか?誰かがどこかで不当な利益を上げていることはないのでしょうか?車椅子を使っている方々に聞かなければ分からないけれど、たとえば学校にいる間使用する車椅子は個人所有でなければ不都合なのでしょうか。

タグ:予算 福祉

金融リテラシー [世の中もうちょっとなんとかなんない?]

私の属する金融関係のコミュニティーでは、日本人一般の金融リテラシーの低さは大問題だ、という認識があります。コツコツと真面目に目の前の課題を解決してゆけば、生活するためのおカネは後からついてくる、というのが、高度成長期までの日本経済が幸せだったころの生き方でした。 しかしこれからは残念ながら、ただ真面目にコツコツやっていて、ふと気がつくととんでもなく貧しくなっているかもしれない時代だと考えるべきでしょう。自分のおカネのことはもっと真剣に考えなければなりません。

個人の生活のためにも資産管理の知識は大切ですが、国家の競争力という意味でも、金融・経済に対する国民の理解というのは重要なのです。債券市場や株式市場が経済にとってどんな役割を果たしているのか、健全な金融市場が国民経済にとって如何にメリットがあるか、そうしたことへの理解のレベルが本当に低いように思います。特に絶望的な気分になるのは、日本では国のリーダークラスの人でさえも、そういうことに対する理解がないとしか考えられない事態がよく見られることです。自分のお財布の管理ができなかった首相、というのもまさに象徴的です。

ただ、リーダークラスの金融リテラシーが低くて許されるのも、結局国民一般が理解していないからでしょう。以前かんぽの宿問題で鳩山邦夫さんが、「2400億円で作ったものを100億そこそこで売却するのはおかしい」と因縁をつけた時に、なんとなく世論の支持を得てしまったのを見た時も、暗―い気持ちになりました。(鳩山さん本人は確信犯なのかもしれませんが。) 誰も欲しがらない高機能な製品をコツコツと作り続ける日本、というイメージが鮮明に湧きあがってきました。

真面目にコツコツやっていたらとんでもなく貧しくなってしまっているかもしれないのは、個人レベルの話だけではありません。国家レベルでも同じです。ものづくり信仰がヤバい、というタイトルで前にも似たようなことを書いたと思いますが、幸せな時代に築いた金融資産の蓄積を如何に有効に生かすのか、そのアイデアのないまま、気が付いたら金融資産は果てしなく劣化してしまっているかもしれないのです

デフレ対策 [世の中もうちょっとなんとかなんない?]

「返済猶予法案」という法案が通ったとか。ローンの返済を待ってくれるんだそうです。
その場しのぎがしやすくなる法案というわけ。

住宅ローンが返せなくなったらどうするか。基本は住宅を売り払ってそのお金で返済するということでしょう。そこがデフレの困ったところです。価格があんまり下がってしまっていると、売ったはいいけれど多額の返済が残ってしまいますから。この事態を銀行に収拾させたいなら、返済方法として現物が選べるといいんですよね。つまり足りない分は銀行が負担する。だって、不動産の担保価値を設定したのは貸し手なんだから。

まあまた銀行経営が混乱すると世の中にとっていいことはないので、銀行をいじめるのはやめたほうがいいんですが、一番みんながハッピーになる解決は何と言っても適度なインフレでしょう。それにしてもどうやったらインフレになってくれるんでしょうね。

景気の悪い時に税金を上げるのはタブーというのが常識でしょうが、たとえば今後10年かけて毎年1%ずつ消費税を上げて行くっていうのはどうでしょうか。日本の財政はいずれそのくらいの消費税を導入しなければ、それこそ持続不可能だということはもうほとんど明らかでしょう。だったらこれから10年の間、ものを買うなら今年の方が来年より必ず税金の分だけ安い、ということにするのです。増税を上回るペースで価格が下落する、と皆が信じてしまってはだめなんですがね。

とにかく来年は今より物価が高い、と皆が信じるようにすればいいわけですから、さすがに10年ぐらいそういう状態を維持すれば、先行き物価が上がると考える癖がつくんじゃないかしら。増税ですからまあ景気には悪影響があるのかもしれませんが、インフレ期待があれば、たとえば明らかに不動産投資は増えます。おカネを持っている人はいるんですから。銀行預金でもっているより明らかに有利と信じられれば、持っている人は投資します。不動産はやはり波及効果がありますからね、それは景気にプラスなはず。そしておまけに国家財政の悪化には歯止めがかかる。それで将来不安が薄れてこれまた景気にプラス…とまで言ってしまうと楽観的すぎますか。

科学未来館 [世の中もうちょっとなんとかなんない?]

事業仕訳のシーン、女性教育会館の次にマスコミが飛びついたのは、元宇宙飛行士の毛利衛氏が「科学未来館」の意義を語る場面でした。

科学未来館。つい今年の春ごろ、初めて子どもを連れて行ってみました。
豪華な建物を見て、気分が悪くなりました。最近、豪華なハコモノをみると、いつも催す症状です。先端科学についての啓蒙が目的であっても、やり方ってもんがあるでしょう?
展示はまあ、はっきり言ってそんなに面白くない。レベルの高い内容なのかもしれませんが、よく勉強しなければわからないような難しい事柄は、そもそもああいう派手な展示には向きません。少なくともあんなに豪華な建物は不要です。

上野公園に昔からある国立科学博物館。豪華さはありませんが、見応えはあります。ちょっとした実験をさせてもらえるフロアーは子どももとても喜びます。行ったことはありませんが、九段に科学技術館というのもありますよね。こちらも行った人たちには好評です。科学未来館も新しい物好きの人にはいいのかもしれませんが、私としては存在意義をあまり感じません。既存の博物館類とダブっていやしませんか?

学校教育を赤字とは言わない、と毛利館長は訴えました。説得力あります?学校教育と科学未来館は同列でしょうか?学校教育だって、無駄なものにおカネを使うことは許されません。

事業仕訳を荒っぽいと批判する向きもありますが、「良識ある市民の目で見る」という意味では、女性会館も科学未来館も直感的に無駄です。今はこのような荒っぽさもある意味必要な時なのではないでしょうか。

パフォーマンス、おおいに結構 [世の中もうちょっとなんとかなんない?]

今話題の事業仕訳け。テレビで断片的に見ていてもなかなかおもしろくて、パフォーマンスとしてはよくできていると思います。役人を悪者にするのが今時の流行ですからね。その悪者を、正義の味方がバッサバッサと切り捨てる。かつて小泉劇場で、抵抗勢力がやっつけられるのを見るのが流行りましたっけ。

この事業仕訳で出てくる予算の節減額は1200億だとか。目標の3兆円には程遠い、ということから、単なるパフォーマンスだという批判をする人々がいます。でも私は言いたい。パフォーマンスのどこが悪いの?

膨らみ続ける国家予算のバランスを再び取ろうと思ったら、もう消費税を上げるしか方法はないことぐらい、常識的な国民は皆分かっているんじゃないかしら。そのための道をならすには何が必要?…それは、国家予算の無駄を省けるだけ省いた、と国民が納得することです。無駄な道路やハコモノがこれ以上作られないことが分かれば、そして天下り目的の無駄な事業に税金が流れることはもうないことが分かれば、消費税を上げてもいいよ、という人は多いと思うのです。だから、このパフォーマンスは国民が「もう十分」と思うまで断続的に続ければいいんです。

霞が関のお役人たちが困る姿を見て喜ぶというのは、決して高い次元の話じゃありませんが、それで皆が納得して税制改革、というか、増税ができれば、財政の均衡への道筋ができるというものです。パフォーマンス、大いに結構。目標に全然足りないと言っても何千億です。懲りずに続けていけば、兆単位の削減ができる日も来るかもしれない、と信じて続けてほしいものです。

タグ:事業仕訳
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