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子どもの命を救うために [子どもをめぐるあれこれ]

連日報道されている、育児放棄で二人の幼児が亡くなった事件。

我が子が2歳や3歳の頃、どんなに可愛かったか思い出すと、ただもう涙がこぼれて来ます。そんな小さな子どもを置き去りにするなんてひどい、と思う傍ら、こういうことをするような母親が、鬼のような極悪非道な人間とも思えないのです。人間としてのどこかのネジが弛んでるというか、抜け落ちてるというか…。とにかく目の前の問題に対して、何の解決策も思い浮かばない、という一種の病気のように思えるのです。

母親の罪状はどうでもよいから、何とかして小さな命を救えないものでしょうか。育児が出来ない母親を非難するのではなく、純粋に子どものために、社会が動けないものでしょうか。

児童虐待や育児放棄予備軍の親たちに届くように、テレビで頻繁に電話番号を流すというのはどうでしょうか。NHKなどは公共放送なのですから、どーもくんなんか見せて番組の宣伝してるヒマがあったら、児童相談所の電話番号を知らせるフィルムでも作って流せばよいのです。

昔アメリカに住んでいた頃、経済は苦しく、多くのホームレスがニューヨークの街にも溢れていました。その頃テレビで流れていた映像が印象的で、今も忘れられません。年老いた女性が、家賃を払えなくなったらしく、幸せそうに夫と写っている机上の写真立てをパタリと伏せ、ひっそりと家から出て行こうとします。そこで流れるメッセージ。(正確には覚えていませんが)「あなたがこういう状況になったら、家を出て行く前に、是非この電話番号に電話してください。」

たとえば、食べ物をまき散らしたり泣きわめいたりする子どもをうんざりと眺めている母親が、ひとりで家を出て行こうとする。すると流れるメッセージ。「子どもにご飯を食べさせるのが面倒で我慢できなくなったら、家を出て行く前に、是非この電話番号に電話してみてください」なんてのは如何でしょう。分かりやすいでしょう?たったこれだけでも、いくつかの小さい命が助かるかもしれません。

こういう提案をすると、容易に予想されるのは、育児放棄を助長するな、母親を甘やかすな、というプレッシャーです。百歩譲ってその主張が正しいとしても、多くの子どもの命という犠牲を払って達成すべきことでしょうか?ほとんどの親はちゃんと育てているのですから、その枠からはみ出した少数の親に対しては、社会として目をつぶってもよいと思います。生まれてきた子どもには、何の責任も無いのですから。

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社会が子どもを守るということ [子どもをめぐるあれこれ]

先週はまたひどい幼児虐待のニュースがありました。子どもの虐待される様を想像すると、身も凍る思いです。こうした事件を目にすると、この社会はまだ、子どもを社会が育てるのだという意思を持てていないように思うのです。死んでしまった子どもたちを救うことはできたはずなのです。児童相談員を増やすとか、管理を徹底するとか、既存の枠組みの中でできることも多々あるでしょう。でも何かシステムの基盤を変える必要があるんじゃないでしょうか。

かねてから思うに、日本は親権が強すぎるのではないでしょうか。法律の分野の専門知識はありませんが、幼児虐待が疑われながらいつももう一歩が踏み込めないのは、親権の壁があるからだと思うのです。親が絶対的に子どもの責任を持つ、責任を持てないと親が認めた時に限り、行政が肩代わりする、というのが今のシステムでしょう?そうではなくて、まず社会が子どもの養育に責任を持つ、親は社会から責任を任されている、というシステムに変えるのです。言いかえれば、親権の前に行政の権力がある。普通の親からすれば、そんなのひどい、ということになるでしょうが、ひどい親の子供も守ってやるにはそれが必要に思います。

現実に何が起こるかというと、幼児虐待が疑われる証拠が揃えば、児童相談員は子どもを助けるための強制執行を行う権限を持つ、ということになるでしょう。幼児虐待の「前科」がある親は、一種の保護観察状態に置かれ、子育てに関する自由が制限されるでしょう。

このような考えに思い至ったのは、昔アメリカ出張中にホテルで見たテレビドラマです。確かイギリスの実話に基づくドラマで、話の主旨は逆に、むしろ行政の過剰な介入を告発するような内容でした。幼児虐待の過去がある女性が、今度こそ、と思っても、子どもが生まれる端から児童相談所に取り上げられ、7人目にして初めて自分で育てることを許された、という苦労話です。ああ、社会が責任を持つってことは、ここまでやるってことなんだ、とその時思いました。このドラマのようなひずみも生まれるでしょうが、守られる子どもの命は確実にあるでしょう。

社会が子どもを守る、というシステムを整備したうえで、自分で育てられない親には、社会に預ける道も選べるのだ、と明確に示すのです。今のこの社会では、子どもを捨てるような親は許せない、というのが通念です。熊本でしたか、子どもを置き去る「ポスト」のようなものを設けた施設が物議をかもしました。「そんな母親はゆるせん」と言って怒る人も多いわけです。(ついでに言わせてもらうと、父親がしっかりしてれば、母親だって子どもを置き去りにしようなどとは思わないはずです。)でも、社会が子どもを守るって、そういうことだと思います。

社会に預ける、ということの意味は、即、養護施設、ということではありません。新しい親を探す、要は養子に出す、ということもあり得ます。ここで再び親権の問題です。現在プロモートされている「里親」という制度、親権は「虐待する親」に残されたままになるわけでしょう。親がどんなにひどくても、子どもを愛していなくても、そう簡単には親権が剥奪される、ということにはならないようです。そういう意味では親に甘いシステムです。育てられない親には親権を認めない。育てる人が親、そういう考え方に変えるべきではありませんか?

里親制度を作ったものの、里親の引き受け手が足りない、といって、行政は悩んでいます。でも、考えても見てください、愛情を注いで一生懸命育てて、それで法律上は他人の子供、と言われ続けるわけですよ。これではよっぽど人格の優れた人間にしかできませんよ。もっと普通の人間にも親になってもらおうと思えば、名実ともにその人の子供にしてあげなくては。それが子どものためでもあるでしょう。親のための親権ではないのです。子どもを育てるための親権なのです。子どもは「食いぶちを稼がせるための親の財産」だったような大昔とは違うのです。

子どもがほしいけれどできないと言って悩む人は数多くいます。システムを整え、社会通念を少しずつでも変えていければ、そのうちの何パーセントかは養子を受け入れよう、と思えるような環境ができるのではないでしょうか。

教育費について [子どもをめぐるあれこれ]

昨年あたりからだろうか、子供の貧困についての議論をよく目にするようになった。子供が貧困に苦しんでいるという事態は、日本という国がじわじわと貧しくなりつつあることや、そうした実態に対応できない社会制度の欠陥を、あからさまに見せつけているように思える。経済力が理由で学校に行けない子供がいるような国を、日本は目指してきたわけではないはずだ。


先日も、NHKでこれをテーマにした番組を見た。食事をまともにとっていない小学生。授業料滞納で高校中退を余儀なくされる高校生。番組の中で気になったのは、授業料以外にかかる費用のことだ。たとえば小学校で、3千円の書道セットの費用が払えない、という話が出てくる。高校は授業料以外に教科書代、PTA会費、その他修学旅行費などが高いという。私はそれを聞いて、まったく大変だよねえ、とうなずく気持ちにはなれない。


小学生一人ひとりに書道セットを持たせる必要があるのだろうか。学校に、生徒数に合わせて硯と筆を買って置いておけば済むことではないだろうか。買いたい人だけは自分で買えばよい。例の“悪平等主義”が好きなら、全員貸出制にすればよい。我が家でも息子が1年生になって、立派な絵の具セットや鍵盤ハーモニカを買った。学校指定の品々だ。絵具も筆も、学校でみんなで使えば教育費の個人負担はずっと軽くなる。私に言わせれば、生徒全員に6千円の鍵盤ハーモニカを買わせるなど言語道断だ。なぜ学校に配備しないのか。買わせるのは衛生上の配慮からしても、マウスピースだけで十分ではないか。この前テレビである一流のジャズピアニストが、自分は小学校の何年生だったかまで、家では紙に書いた鍵盤でピアノの練習をしていた、と言っていた。音楽家になる人でも紙の鍵盤だ。義務教育はそんなスタイルでも良いのではないか。


高校についていえば、もう高等教育なのだからPTAの活動は不要ではないか。どうせ活動費のかなりの部分が、ほとんど読みもしない「広報誌」の印刷代に決まっている。修学旅行はそもそも勉学に必要なのか?「集団生活」を学ぶのは中学までで十分ではないか。教科書だって貸出制をとればよい。私が15歳のころ、当時の西ドイツのギムナジウムに通った時には、教科書は借りることが出来た。私も数学や科学系の教科書は学校から借りて、カバーをかけて使っていた覚えがある。


もう日本は今までのように豊かではないのだ、貧困に苦しむ家庭がふえているのだ、ということを前提に、教育予算も効率的に使い、少しでも家庭の負担を減らす努力をすべきではないか。教科書も鍵盤ハーモニカも、あるいはランドセルも、みな利権の巣窟に違いない。公共事業のようなスケールはないかもしれないが、こんなおいしい商売があるだろうか?そしてその裏側には貧困で苦しむ家庭だ。どこかおかしい。


もうひとつ気になったのは、高校の実例に出てきた女子生徒。看護師になりたいのだが、看護学校へ行くお金がないので無理かもしれないと言っていた。この国では看護師は足りなくて困っていたのではなかったか?高校の授業料無料化もすぐれた政策だと思うけれど、専門学校についても教育内容によっては無料化するのが正しいと思う。昔の傾斜生産方式を教育投資に応用するわけだ。介護要員も然り。自腹で教育を受けて資格を取って給与水準が低いとくれば、なり手がいなくて当然だ。


経済的に苦しむ学童・生徒の話を聞くにつけ、学校に電子黒板だの炊飯器だのを買う予算をつけようと言いだした政治家たちの、なんとおめでたいこと。そんな暇とお金があったら、硯や筆や楽器を買うなり、図書室の本を買うなり、給食費をすべてただにするなり、学校事務員をもっと雇うなり、教員の給与を上げるなり……。それなのになぜ電子黒板などという発想になるのだろうか。もう少し真面目に考えて物を言ってほしいものだ

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