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社会が子どもを守るということ [子どもをめぐるあれこれ]

先週はまたひどい幼児虐待のニュースがありました。子どもの虐待される様を想像すると、身も凍る思いです。こうした事件を目にすると、この社会はまだ、子どもを社会が育てるのだという意思を持てていないように思うのです。死んでしまった子どもたちを救うことはできたはずなのです。児童相談員を増やすとか、管理を徹底するとか、既存の枠組みの中でできることも多々あるでしょう。でも何かシステムの基盤を変える必要があるんじゃないでしょうか。

かねてから思うに、日本は親権が強すぎるのではないでしょうか。法律の分野の専門知識はありませんが、幼児虐待が疑われながらいつももう一歩が踏み込めないのは、親権の壁があるからだと思うのです。親が絶対的に子どもの責任を持つ、責任を持てないと親が認めた時に限り、行政が肩代わりする、というのが今のシステムでしょう?そうではなくて、まず社会が子どもの養育に責任を持つ、親は社会から責任を任されている、というシステムに変えるのです。言いかえれば、親権の前に行政の権力がある。普通の親からすれば、そんなのひどい、ということになるでしょうが、ひどい親の子供も守ってやるにはそれが必要に思います。

現実に何が起こるかというと、幼児虐待が疑われる証拠が揃えば、児童相談員は子どもを助けるための強制執行を行う権限を持つ、ということになるでしょう。幼児虐待の「前科」がある親は、一種の保護観察状態に置かれ、子育てに関する自由が制限されるでしょう。

このような考えに思い至ったのは、昔アメリカ出張中にホテルで見たテレビドラマです。確かイギリスの実話に基づくドラマで、話の主旨は逆に、むしろ行政の過剰な介入を告発するような内容でした。幼児虐待の過去がある女性が、今度こそ、と思っても、子どもが生まれる端から児童相談所に取り上げられ、7人目にして初めて自分で育てることを許された、という苦労話です。ああ、社会が責任を持つってことは、ここまでやるってことなんだ、とその時思いました。このドラマのようなひずみも生まれるでしょうが、守られる子どもの命は確実にあるでしょう。

社会が子どもを守る、というシステムを整備したうえで、自分で育てられない親には、社会に預ける道も選べるのだ、と明確に示すのです。今のこの社会では、子どもを捨てるような親は許せない、というのが通念です。熊本でしたか、子どもを置き去る「ポスト」のようなものを設けた施設が物議をかもしました。「そんな母親はゆるせん」と言って怒る人も多いわけです。(ついでに言わせてもらうと、父親がしっかりしてれば、母親だって子どもを置き去りにしようなどとは思わないはずです。)でも、社会が子どもを守るって、そういうことだと思います。

社会に預ける、ということの意味は、即、養護施設、ということではありません。新しい親を探す、要は養子に出す、ということもあり得ます。ここで再び親権の問題です。現在プロモートされている「里親」という制度、親権は「虐待する親」に残されたままになるわけでしょう。親がどんなにひどくても、子どもを愛していなくても、そう簡単には親権が剥奪される、ということにはならないようです。そういう意味では親に甘いシステムです。育てられない親には親権を認めない。育てる人が親、そういう考え方に変えるべきではありませんか?

里親制度を作ったものの、里親の引き受け手が足りない、といって、行政は悩んでいます。でも、考えても見てください、愛情を注いで一生懸命育てて、それで法律上は他人の子供、と言われ続けるわけですよ。これではよっぽど人格の優れた人間にしかできませんよ。もっと普通の人間にも親になってもらおうと思えば、名実ともにその人の子供にしてあげなくては。それが子どものためでもあるでしょう。親のための親権ではないのです。子どもを育てるための親権なのです。子どもは「食いぶちを稼がせるための親の財産」だったような大昔とは違うのです。

子どもがほしいけれどできないと言って悩む人は数多くいます。システムを整え、社会通念を少しずつでも変えていければ、そのうちの何パーセントかは養子を受け入れよう、と思えるような環境ができるのではないでしょうか。

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